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June 27, 2008.

エコ体型


朝からCradle the skyの再読を開始。シリーズの再読が終わってからにしようと、購入したsky eclipseはまた手付かず。こういう自制心に、大人になったなと思う。昔なら「明日地震で死んだらどうするんだ!」と楽しい事は先延ばしに出来なかった。今も同じ事は考えるが、自制が可能。今までの作品と異なり、今のところ全然空戦シーンが出てこない。こんなに長く続けられるものかと言うぐらい、せつないシーンが淡々と綴られる。これはジュヴナイルに見せかけたそのアンチテーゼなのか。大人の純粋さを子供があやしている。よく考えると凄いな。

 

 

仕事は調査とバッチの試験。午後にシステムのトラブルあり。原因は保守系。他は大きな変動無し。いつもどおりの定時退社。帰りの電車は読書に当てた。帰宅後にバドへ。わが下手さに泣くが、少し復調中。日曜の試合はどうなることか。

 

夜、蚊の羽音がうるさくて眠れず。インコがいるので、殺虫剤や蚊取り線香が使えないのだ。何度も電気をつけて探すも上手く見つけられず。あきらめて寝ようとするも寝られず。携帯でゲームをやり、イヤホンをして音をごまかして寝る事にしたが、熱中してしまい、むしろ目がさえてしまった。最終的に、普通に寝る事にしては音が聞こえたタイミングで適当に叩いた結果、撃墜。結局3時半までおきていた。

 

 

燃料価格の高騰を受け、全日空などが飛行機内設備の軽量化を実施したらしい。大きなところではトイレの水の量など。細かいところではフォークを少し細くしたとか。フォークの場合、全部を細くすると1.5kgの軽量化になったという。本当にギリギリの努力である。ところが乗客の方はといえば、太っていても痩せていても値段は同じ。180kgの巨漢も35kgの華奢な女性も同じ支払いで済むわけだ。確かに座席数は同じとはいえちょっと納得がいかない。電車のベンチシートに至っては体型で座れる人数だって変わるのだから、そろそろ料金体系の見直しが必要なのではあるまいか。人間は「ある程度」痩せている方がエコである。

身長等と異なり、体重はある程度コントロールが可能だ。増やすよりは減らす方がたやすい。「絶対に痩せない」という人は存在しないからだ。太りやすい体質という物はあるが、水以外何も与えずに縛っておけば誰だって必ず痩せる。それでも痩せない人がいたら、それはもはや永久機関なので、集めて発電することでエネルギー問題は解決である。つまりそんな人はいない。

そもそも、太ってから痩せるという行為は非常に非エコだ。必要量以上に食べれば、その生産・輸送分のエネルギーを消費するし、ダイエットのためにまたスポーツやジムに通えば、さらにエネルギーを消費する。したがってそもそも太らないことが望ましい。かといって太る前にスポーツをやれば良いという意味ではない。スポーツで代謝を上げてから沢山食べるのは、順番が逆なだけで太ってから痩せるのと同じ行為だからだ。今の自分は痩せてはいるが非常に非エコだといえる。エコ上の「太らない」は「無駄に食べない」という意味である。ちなみにさきほど何故「ある程度」と書いたかと言うと、痩せている人のほうが体積当りの表面積が増え、エネルギーを消費しやすくなり、体を維持するために必要な食べ物が増えるからである。食べる量の増加分のコストと移動時の体重のコストとの比で、最適な体重が決まる事となるわけだ。

 

将来は、生きるためのカロリー取得と、味を楽しむ為の「食事」は分離される事になるだろう。カロリーは最適量のみ摂取し、味を楽しむ行為はバーチャル・リアリティで済ませるのが望ましい。そんなものは味気ないと怒られそうだが既に部分的に実現されている。糖ではないのに「甘い」と感じさせる甘味料などは化学物質による味の再現である。バーチャル・リアリティとの差異は少ない。デジタルで行なうかアナログで行なうかのアプローチの違いだけだ。本物の美味しい食事を食べる行為は、やがて芸術の分野となるだろう。

 

そもそも移動と食事の観点から考えると、現代において一番エコな人は、あまり部屋から出ずゲームなどにいそしみ、動かないのでおなかが減らずあまり食べない、ひょろっとした体型のオタク族である事になる。ゲーム = 電気 = 非エコと誤解されがちだが、土地を切り開いて作ったコートに、車でめいめいが集まり、石油で作ったボールを、カーボングラファイトのラケットで打ち合うテニスなどに比べ、テレビゲームは相当エコである。

 

とまぁ、こういう事ばかり書いているとエコ信者のようだが、自分はぜんぜん逆。地球を守ろうとかそういう台詞は苦手。エコってのはお小遣い計画のようなものだ。人に限らず、全ての生命体は消費により生存するので、存在自体が非エコだ(逆に言うと破壊をしようと何をしようとそれはeco-systemの一部なのだが)。完全なエコは全ての存在の否定である。一方人間にとってのエコ思想と言うのは「人間が生きていくために残っている資源を有効活用して、自分たちが長く存続するための【打算】」である。お年玉を一気に使ったら勿体無いから、ちょっとずつ使おうといっているだけ。生きる以上、なくならないお年玉はない。プラモデルを買う時、お菓子を買うときにおじいちゃん・おばあちゃんに「お年玉有難う」と思うように、非エコな行動をしている事に「資源有難う」という気持ちが重要なのだ。どんな活動でもそうだけど、一番大切なのは正しい「認識」だと思う。


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