時をかける少女
監督:谷口正晃/ 原作:筒井康隆/ 71点
■仲里依紗の魅力爆発...ではあるものの
時をかける少女は、超有名原作の再三にわたる映像化作品の一つである。大もとの原作は、筒井康隆により1967年に描かれた、名作ジュウヴナイルSF作品「時をかける少女」である。もっとも有名な映像化作品といえば、原田知世主演の映画であり、これは非常に原作に忠実な物語だった。本作品は原田知世が演じていた「芳山和子」の娘が主人公の物語であり、先日のアニメ化作品と同様、原作とは関係の薄い物語となっている。
仲里依紗演じる主人公の芳山あかりは女子高生。母親は原作の主人公、芳山和子である。和子と古くからの知り合いである吾郎が近所の深町家から見つけたと一枚の写真を手渡す。写真に写っていたのは確かに和子だったが、隣に移っている少年には見覚えが無かった。写真を見てから何かに取り付かれたようになった和子は、交通事故に合い、意識を失ってしまう。
一時的に意識を取り戻した和子は、「1972年4月の中学の理科室に行って、深町カズオに伝言を伝えてくれ」とあかりに頼む。なんと長年薬学を研究してきた和子は、タイムトラベルの出来る薬を作ったというのだ。母の言葉を信じ、薬を飲むあかり。しかし、年月を取り違えてしまい、1974年の2月にタイムスリップしてしまったのだった。
とにかく1974年の描写が素晴らしい。1974年といえば僕が生まれた歳であり、多少のタイムラグがあるとはいえ、物心ついたころの日本はまさにあんな雰囲気だった。ややセピア色に描いた数十年前の日本の姿は懐かしくて美しい。一方、タイムスリップものにありがちな、「世代のギャップ」が上手く生きていなかったのはややもったいないような。例えば銭湯のシーン。番台に座っているのをおっさんにしてみれば良かったのではと思う。今の高校生は知らないだろうが、ほんの3〜40年前まで、女風呂とつながっているにもかかわらず番台におじさんが座っているのは普通だったし、母親は人前でもおっぱいを放り出して授乳するのが普通だったのだ。
とはいうものの、その部分は大きな欠点とはいえない。36年前の世界での恋愛を描いた青春モノとしての側面から捉えると、なかなかの出来だと思う。
問題はSFとしての出来の方だ。時をかける少女は伝統的にパラレルワールド案ではないため、1本の時間軸の上を移動する事となる。当然、さまざまな矛盾が生じるので、それをいかに気づかせないかが脚本家の腕の見せ所となる。
しかし、本作品ではいろいろと無理のある設定が多くてうーんと言う感じだった。
以下、ネタバレのため注意。
ネタバレ1
まず根本的なところから言うと、なぜ深町カズオは1974年に登場したのかである。効率を考えるなら、2010年にあかりがタイムスリップする直前に現れて、「やめときなさい」で物語は完結してしまう。それが出来なかった適当な理由がほしい所だ。例えば、時間移動は出来ても過去の歴史はそれほど詳細に残っているものではない。だから、新聞の記事以外に情報が無かった、などなど。
無論、そういう描写が泣くともそういう裏設定だったのかもしれない。しかし、その割にはその後の後片付けの際にはてきぱきと神出鬼没にあらわれ、物事を綺麗に解決しすぎる。彼自身に「あかりを探す・追いかけるのに必死」な状況が見えないため、どうしても「もっと効率よく動けよ」という思いがこみ上げてしまうのだ。
次に、本作品における薬品を使った時間旅行能力の定義である。タイムマシンなどの機械を使ったものではなく、本作品ではラベンダーを原料とした薬品によりタイムトラベルが実現する。ところが、あかりが年号を間違えたときに出現したのは、同じ中学の理科室ではなく、大学の理科室だった。いつの間にやら空間移動能力まで備わってしまっている。
実を言うと、「時間移動のみ」というタイムマシンの設定には無理がある。なぜかと言うと、半年前に戻ると、そこは宇宙のど真ん中で、地球は太陽をはさんで反対側にあることになる。もっといえば、宇宙全体は膨張しているので、虚空に出現する事になりかねない。そんなわけで、タイムトラベル時には「時間旅行は自分の所属する空間の慣性の法則に従い、移動中の車から投げ上げたボールのように移動できる」という、SFにおける暗黙の了解があるわけだ。その了解を崩して移動する以上は、マシンにするか、何らかの「ずれ」の理由を設定するかしないと、SF好きには納得が出来ないだろう。
そして不思議なのは、最後に病院に戻る際のシーンである。あかりはジャンプした元の場所に戻るわけではなく、自宅に戻される事になる。吾郎おじさんと病院で語り合ったときにみた「今日はxxx年前のバス事故を振り返って見ましょう」という番組が、「一人で部屋に横たわるあかりの部屋のテレビ」で流されることになる。もし同じタイミングの番組をみているなら、移動後には吾郎おじさんとの会話がなくなったことになり、未来が変わってしまっている。いやむしろ、その瞬間あかりが2人いた、という仮説の方が正しいかもしれない。
さらに言えば、その後「母が意識を取り戻した」とナースコールするシーンも不思議だ。時間旅行前に意識を取り戻しているはずなのに、そこの記憶まで消してしまったのだろうか。あるいは母が1回目の意識を取り戻すシーン自体が歴史が変わってなくなってしまったのかもしれないが、なんとも通常の「時間旅行モノ」としては納得の行かない戻りのシーンとなってしまっている。
そして最後に、一番重要なのは「歴史を変えてはいけない」という言葉の軽さだ。上記で述べたとおり、なんだか歴史は変わりっ放しに見える。というか、そもそも「いつの間にか吉山和子が薬学を学んでいた、という事実に深町が驚く」というシーンがあった以上、残った記憶をもう一度綺麗に消し去らないかぎり、吉山和子の人生は大きく変化してしまっているはずである。
そのあたりが適当だから、「歴史を変えてはいけない」と「彼」を見殺しにするシーンも、なんだか納得がいかない。人を見殺しにしておいて、記念に8ミリをとっておいたり、記念にラベンダーを置いてみたり、積極的に歴史を変えに行くのを見ていると、「お前、ちょっとは懲りろよ」と思ってしまう。
ってかもっというと、記憶を消して回ったからといって、歴史が変わらないなんて馬鹿な話はない。例えば、銭湯でフルーツ牛乳を飲む。すると、それが飲めなかった人が別のものを買う。そのお金で誰かが何かをして...と繰り返す事により、ほんのちょっとしたことが大きく未来を変えてしまうことがある。ドラえもんではのび太が立ちションをしたら、そこは大きな川になっていた。こう言うのをバタフライエフェクトという。脚本家の方においてはどうぞ、映画バタフライエフェクトを読んでその辺をご考慮いただきたい次第だ。
とまぁ、ネタバレ内には厳しい話ばかり書いてしまったが、仲里依紗は魅力的だし、映像もなかなか。深く考えずにあくまで情緒的な部分を楽しめばなかなかの出来だと思う。ただ、いくら声が同じとはいえ、アニメ版の「真琴」と仲の走りを見比べると、スピード感が足りなさ過ぎる。しばらく短距離の練習でもさせてから撮影すべきだったのでは?
...ってか、1974年にあんな短いスカートの女子高生がいたら、エロ過ぎる...。
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