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モンスター

作者:百田尚樹/ 原作:/ 86点
【送料無料】モンスター [ 百田尚樹 ]

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価格:1,575円(税込、送料別)

■美の価値とは

 

冒頭ですが、以下、いきなり物語全体の構造に触れます。ネタバレに厳しい人はこの書評がまるで読めませんが、ご容赦下さい。

 

「モンスター」は非常に不細工に産まれ、とある事件をきっかけに「モンスター」といううあだ名を付けられた女が、整形によって美の力を手に入れる物語である。では彼女は何のために「美」を手に入れようとしたのか。その辺りをどう評価するかによって、本作品の評価は大きく上下すると思われる。

 

本作を読んだ時に大多数を占めるであろう感想は、「人間は見た目じゃないから、中身で勝負すればいい。それを整形でカバーしようだなんて、浅はかな物語だ」という大人の意見だろう。しかしこの意見には明確な落ち度がある。中身が駄目だったらどうするのか。知的でもなく、フレンドリーに会話する能力もない人間はどうすればいいのか。結局のところ、上記のような「大人の意見」で納得できるのは、「人に馬鹿にされない程度に、そこそこの見た目に生まれた人」もしくは「見た目にかかわらず、他人に認めてもらえる程度に、頭がよいとか、愛想が良いとか、運動神経が良い人」、あるいは「どれも持っていないけど、お金持ちの家に生まれた人」のどれかなのだ。生まれつき顔が不細工で、頭も悪くて、貧乏に生まれた人は、この「大人の意見」に賛同できないはずである。

 

そもそも我々日本人は、美や金銭を素晴らしいものと評価するのに、躊躇する傾向にある。整形美人や金持ちのもつ金銭を目的に結婚した人がいたら、多くの人が後ろ指を指すだろう。しかしそれは本当に悪いことなのだろうか。

 

一時期、60歳でリタイアした日本人が、貯金を持ってタイなどに渡り住み、若い女の子と結婚して第二の人生を歩むのが流行った時期があった。多くの人はお金目当ての結婚なんてと目を顰めるだろう。しかし女友達が、月収3万円のフリーターと結婚すると言ったら、多くの人が必死で止めるだろう。両者の違いはどこだろうか。「最低限生活していくのに必要なお金」の範囲をいくらに設定するかの閾値の問題に過ぎず、両者に本質的な違いは無い。

 

そもそも、長年に渡り生態学を学んできた僕から言わせてもらえば、顔、頭、身長、経済力、優しさ、趣味が合うなどの異性を評価するポイントの間に貴賤の違いはない。所詮はどれも異性を子孫の生存能力の観点で評価する際の1スペックに過ぎないからだ。

分かりやすいところから行こう。頭が良い配偶者は安全で効率の良いな家庭を築く。そして子孫も頭が良くなる可能性が高いので評価が高い。身長が高ければ、力が強く、生存能力が高い。また、体格が大きいということはそれ自身健康であることを示すので評価が高い。経済力が高いということは、素晴らしい衣食住の提供を意味する。

わかりにくいところも解説しよう。優しさは哺乳類には欠かせない評価ポイントである。子が大きく、数が少なくなった哺乳類は、卵を産めば終わりの生き物に比べ、子を育てるために「面倒見の良さ」が必要となる。優しさやこまめさは、この「面倒見の良さ」を表す評価に過ぎない。趣味が合うというのは「自分の求める価値を提供してくれる」という点で評価が高い。例えば、白いベッドを好む白猫がいたとする。同じ好みの異性と結ばれれば、保護色で安全に生活できるが、黒が好きな異性と結ばれた場合、寝ている内に子供がカラスに襲われて殺されてしまうかもしれない。

 

では、本題の美しさとはどんな評価ポイントなのか。そもそもの発端は、フラグメンタル・アシンメトリーという観点だ。要は、整っているって事は健康的という評価である。左右対象な体は運動能力が高いと考えられるし、肌が綺麗ということはアレルギーなどがない、病気を持っていないなどの点で評価できる。

一旦これらの評価基準が定まると、「大袈裟さ」が評価されるようになる。例えば、羽根の綺麗な鳥は健康的である、という評価が存在する。メスは羽根の綺麗なオスを選ぶ。そのうち突然変異で、健康とは関係なく、やたら羽根だけは綺麗なオスが生まれたとする。そのオスは特に健康ではないのだが、沢山のメスから「羽根が綺麗ってことは健康に違いない」と選ばれた結果、沢山の子孫を残すこととなる。やがて羽根がより綺麗に、より目立つように進化した結果、どう考えても生存に不向きなのに綺麗な羽を持っている方が有利な、孔雀のような生き物が誕生する。これをエスケープ理論などと呼称する。

つまり、美しいものは、他の能力がなくとも「異性に選ばれるという能力」において秀でているため、生存能力が高いのだ。そしてその子供はまた美しく生まれ、他の能力がなくとも多くの子供を残し...と続くわけだ。このように異性に好まれる能力によって、美しいものが選ばれたりすることを「性選択」と呼ぶ。

 

これまでの長々とした説明を読むと(ちゃんとした読解力のある読者なら)分かる通り、顔、頭、身長、経済力、優しさ、趣味が合う、などの評価の間には、最初に宣言した通り貴賤の差はない。「あの人のお金に惚れた」も「あの人の優しさに惚れた」も所詮は「たくさん子供が残せそうな配偶者だから交尾相手に選んだ」と発言しているにすぎないのである。若い読者の方々、夢を壊してすいません。

 

 

さて、今までの長々とした本編に関係のない説明を前提にちょっと、物語を置き換えてみよう。以下を読むと本編の結末がよめてしまうので、ネタバレ内に書きます。

上記ネタバレ内に書いたのは「自分が納得するまで」というゴールを定め、学問に人生のすべてを捧げた男の物語である。ではなぜこの「知性」が「美」に変わると、「浅はかな物語」なのだろうか。両者に違いはない。本作品は、美という彼女が憧れ続けたゴールを目指す、命をかけた真摯な努力の物語なのである。

 

最初に本作品のタイトルを見た時、「美のために顔をいじくりまくった姿が『モンスター』」という作品なのかと誤解した。しかし、百田尚樹氏はそのような誤ったタイトルを付けなかった。本作品においては、周りが醜い姿を「モンスター」と呼んでいたに過ぎない。彼女の美の為の努力を否定する人物は登場するが、脚本は彼女の行為を否定しない。その辺りに百田氏の生き物への力に対する尊敬の気持ちが垣間見えるように思う。「風の中のマリア」でも同じ事を感じた。ジョジョにおける「生命賛歌」にも通じる思いがあると思う。