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ブラッド・スクーパ

作者:森 博嗣/ 原作:/ 94点
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価格:1,890円(税込、送料別)

■「生きる」という道を極める者の物語

 

ブラッド・スクーパは時代劇風小説「ヴォイド・シェイパ」の続編作品だ。主人公のゼンは幼き時代からスズカ流の師範であるスズカ・カシュウと二人だけで暮らし、カシュウの死後に里に降りてきた男だ。従って彼は剣の腕こそ非凡だが、一般的な常識をおおよそ何も知らない。どこかのサイトで前作ヴォイド・シェイパを「時代劇版ドラゴンボール」と呼んでいて、吹き出しつつも膝を打ったのも記憶に新しい。では何故時代劇「風」等と書いているのかというと理由は2つある。

 

1つはこの物語の時代設定や国設定が明確ではないことである。作品中で描かれる時代背景だけから見れば、江戸時代末期に酷似していることはすぐに分かる。武道はもはや戦に必要な技術ではなく、剣が立つか否かはせいぜい士官のための資格程度にしか評価されない。剣を極めようとする者がいる一方で、オープンなスペースでは槍で戦ったほうが強いという描写が登場するし、銃を使う者もあらわれる。

しかし、だからといって時代や場所を江戸時代の日本だと断定することは出来ない。作品中には権力者の名前などは一切語られないし、年号などが登場することもない。また、脇役の名前が漢字表記である事が多いのに反し、主要人物達の名前はカタカナで表記されることが多い。つまり、江戸時代の日本によく似た、SF的別世界である可能性があるわけだ。

 

もう1つは、この物語の描かれる目的がそこにはないように見えるからだ。森博嗣が描きたかった世界を考えた時に、江戸時代末期的な世界がちょうど良かったからそこを舞台にした、というのが本当のところではないかと思う。完全に僕の想像になるが。

何故そのように考えたかというと、それは上述のドラゴンボール的設定と関係している。物語の中でゼンの師匠であるカシュウは「考えるな」という台詞をよく口にする。目の前のあるがままを先入観なしに観察しろという。これらを実現するためには中途半端な「知識」が一番邪魔になる。

例えば、「武士は◯◯すべき」といった立場上の常識、刀は切るものという技術的常識、そういった常識は物事の観察の目を曇らせてしまう。人間が動物より優れている点は物事を抽象化して認識する能力にある。ところが4歳までの子供は記憶の取捨選択能力・抽象化能力が低いため、しばしば車の名前などの単純記憶において天才的な能力を発揮することがある。しかし、抽象化能力の向上とともに、その驚異的観察力や記憶力も失われてしまう(それが失われない症状をサヴァン症候群等と呼んだりする)。

ゼンが世間知らずとして描かれているのは、物事を素直に吸収する能力者として必要な設定なのだ。そして、それと同時に、世の中の普通を普通として捉えず、もう一度物事の成り立ちの意味を考えなおすという視点を、読者に提供するための役割も果たしている。世の中の成り立ちを見直す上においては、現代のような複雑に進歩しきった世界はそぐわない。そこで、まだまだシンプルな社会でありながら、ある程度の社会構造が出来上がっており、多種多様な視点が交じるこの時代設定を選んだのだと思う。

前作に登場したあるキャラクタが語った「農民」は、物語中殆ど動物と同じ立場として描かれる。何のために生きるかという意味はそこにはなく、結果として生と死は当価値だという。生きるための意味などを考えるのは、お前が「武士」だからだと指摘するのだ。

 

以下、ネタバレじゃないけど、本題を外れるのでネタバレ内に隠しときます。

 

閑話休題。ややこしい事を長々と書いたが、単なる剣豪小説として読んでも本作品は見事である。静かで淡々とした戦いのシーンの描写は非常に静謐で美しい。前回も書いたが、この描写スタイルはスカイ・クロラシリーズに酷似している。空間把握能力を要求する描写なので、うちの奥様は苦手かもしれないけど(汗)。これ、アニメ化にも向くんじゃないかなぁ。森氏にその気があるかどうかは知らないけれど、押井守とのタッグならもう一度見たいと思う。

なお、本作品の主人公「ゼン」および、その流派である「スズカ流」は相手と刀をほとんど合わせない。実際の所、刀の重さで押し切る或いは叩き潰すのが目的の西洋のロングソードと異なり、鋭さで切る日本刀でチャンバラなんかやろうものなら、あっという間に刃毀れして、直ぐに切れ味が落ちてしまう。冷静に考えれば当たり前のことなのだが、この事実を取り込んだ作品を作っているのは、自分の知っている中では森博嗣と、「座頭市」の北野武だけである。そういった目で作品を見てみても面白いと思う。