蒼穹の昴作者:浅田次郎/ 原作:/ 100点
■運命と努力と情熱の物語
「蒼穹の昴」は西太后の時代を描いた作品である。西太后と言われてもパッと分からない人(自分もそうだった)の為に説明しておくと、彼女は3代にわたりほぼ実権のない王の代わりに国を治めた才女/鬼女である。時代は有名なラストエンペラーの直前。ちょうど日本では明治維新が終わったあたりのお話である。 本作品の物語の大きな流れは史実に基づいた形で描かれている。しかし史実にはそれぞれの人物の心までは描かれていない。そこで浅田次郎が時代の立役者達の「心」を創作し、新たな中国史として描き直したのが本作品である。 上記に「才女/鬼女」と描いたとおり、一般的に西太后といえば、怖い女のイメージが強いわけだが、本作品ではそういったイメージを大きく覆すような描き方をしいる。教科書に掲載された「記録」だけをたどっても、本当の姿なんて誰にも分からないのだ。そして、だからこそ数多くの「歴史小説」が誕生しうる余地が発生するのである。
自分は文庫版(全4巻)で本作品を読んだのだが、1冊目から度肝を抜かれた。1冊目は本作品のとある主要人物が科挙により士大夫として成功するまでの姿を描いているのだが、この試験の描写が凄い。 科挙とは3年に一度行われた、中国の古い士官募集制度である。科挙では超絶的な分量の記憶に基づいた、難易度の高い試験についての論述形式での回答を、墨汁で一字一句間違うこと無く、試験用に決められた書式で描き上げねばならない。その試験期間は数日間にも及び、受験者は夜具や食料などを持参して試験を行う。試験の結果は合格と落第の2つという訳ではない。答案を完成できなかったり、答案にしずく一滴でも汚れをつけようものなら、その後3回の受験資格を奪われることとなってしまうのだから、ダメ元での受験など一切許されないのだ。あまりに過酷な試験であったため、試験中に気がふれる受験者も少なくなかったという。 この壮絶な試験の描写は、彼らの頭脳の明晰さ、中国という国の巨大さを表現すると共に、我々に別の事実を魅せつける。それは、あまりに試験が凄「すぎる」事である。それはもはや壮大なる無駄と読んでも良いぐらいに。
そもそもこの科挙とは598年〜1905年まで行われていた制度であるが、この物語がちょうどのその終盤、日本では明治に差し掛かったあたりの話であることは上述のとおりだ。ではこの時代の科挙の試験内容とはどんなものだったのか。実は昔とほとんど変わっていなかったのである。古典的詩歌や文献についての深い知識が問われ、受験者の多くはそれらの習熟のために全てを費やしたため、一般常識を殆ど知らなかった。むしろ「科挙のための純粋な学問に力を注ぎ、一般常識を知らない事」がステータスの一部と化していたぐらいである。当然そのようなものが政治家になっても世の中はよくならない。 つまり、この長く続いた科挙という制度は、長く成長すること無く停滞してしまった中国の象徴だったのである。浅田次郎氏の科挙についての素晴らしい描写が、その無駄さを強調するために発揮されていたのだと気づいたときに、この物語の凄さに気づいた。
この後の物語の展開を上記のペースで書き進めると、レビューとは言いがたいものになってしまうので、あとは簡単に。
本作品は世界一進んでいたはずの中国が、世界に取り残されてしまった時代の政治家たちの姿を描いた作品である。現王制を守ろうとするもの、新しい王制を築こうとするもの、王制を崩してしまわないと何も変わらないと考えるものなど、様々な当時の中国の政治家たちが登場する。物語後半には伊藤博文など日本人にも馴染みの深い名前が登場し、当時の中国から見た日本を客観的に感じることができる。自分は本作品を読んで、中国の歴史に興味を持つと共に、日本の近代史にも興味が湧いてきた。 中でも素晴らしかったのが李鴻章の活躍。彼を主人公とした作品があればぜひ読みたいと思う。この作品を読んで心をガッツリ掴まれてしまった。以下ネタバレなので注意。
またこの物語は歴史書を読むだけでは分からないような、深い人間描写にによって構成されている。例えば、西太后であれば「盲目的な恋に生き、母性に囚われた女であり、実は有能で国を必死で守ろうとしていた女。しかし、国を滅ぼすことで国を救う宿命を預けられた女」というように。歴史小説の素晴らしい点の一つは、歴史上の人物を感情移入しやすい対象とすることで、過去の史実が遠い世界のものではなく、身近に感じられる点にあると思う。
この「蒼穹の昴」のタイトルとなった「昴」とは、冒頭にある占い師が語る予言の中に登場する言葉から採られたものである。本作品では様々な人物が「運命」の元にそれぞれの役割をはたすこととなるが、それを覆す人物が物語の主役クラスの人間として登場する。くさい台詞のようだが、運命を切り開くのは強い意志と絶え間ない努力しかない。
このレビューの前半で、科挙を無駄なものの象徴であるかのように扱った。しかし科挙制度は無駄でも、「科挙に励むこと」自体は無駄ではない。例え非合理的に見える制度であろうと、それを覆す力が欲しくば、まずその制度の中で力を付ける必要がある。倒れかけた中国を動かした人間は全て「枠の中での一見無駄に見える努力」を突き通した者たちなのだ。
今の環境に文句があるなら、その中でトップに立てば良い。そうすれば環境を変えることなどたやすいのだ。
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