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作者:三浦しをん/ 原作:/ 67点

■幸せが実感できなくなってしまった人達の物語。

 

人間ってのはあまりにも贅沢な食事ばかりを続けていると、だんだんその美味しさに麻痺してしまい、それをさして美味しいとは感じなくなってしまう。一方で、徹頭徹尾貧しい食事ばかりしか経験していないと、美味しい物を食べてもその美味しさが理解出来ない。何故なら「美味しい」という感覚には多分に学習の要素が含まれているためである。

 

本作品の主人公は子供の時代にあまりに大きな不幸を経験してしまったがために、一般的な幸福を自分のものとして実感できなくなってしまっている男である。そしてそんな彼が生涯の伴侶として選ぶのは、皮肉にも平凡な幸せをずっと受け続けていたがゆえに、自らのもつ平凡な幸せが、どれほど素晴らしいものであるか実感できなくなってしまっている女である。酷い女だと思いつつ、我々全てがそういう一面を持っているはずである。何故ならそれは環境適応能力の一部だからだ。

 

とある理由により、主人公の「不幸」の描写が抜群に怖い。以下、物語冒頭部分のネタバレとなるため注意。

ネタバレ内に書いたような理由により、ちょっと今みんなにこの作品をお薦めする気にはならない。別にこの作品に問題があるわけではないだが。

 

物語途中、ある子供が「青く暗い色で塗りつぶした空の中に、色を塗っていない真っ白な部分」として太陽を描いたエピソードが登場する。これこそが本作品のタイトルの意味ではないだろうか。一般的な幸せを手に入れている人間にとっての幸福というのはプラスアルファなのだ。真っ青に澄み渡った空の中に、更に眩しい太陽というプラスアルファの素晴らしい物が存在する。一方幸せを経験していない人間にとっての幸せとは、不幸という暗く塗りつぶされた空の中に暗くない部分、つまり「普通という幸せ」が存在しているのだ。

 

ところでこの物語の母親は「他の子と太陽の書き方が違う。気持ち悪い」と言及するのだが、旦那はそれに対し「太陽が赤いのは朝夕だけ」と娘の描き方を支持する。物語の構造的にそう言及したのはわかっているが、多少なりとも美術系の方向を目指していた自分としては父親の意見に同意。

幼稚園児の頃、小さい子供は夕日や朝日を見る経験が少なく、当然太陽を赤く書く意味が理解できなくて、一人淡黄色で太陽を書いていたからだ。さらに言えば、分かりやすいからとアイコン化されている事を理解の上で、赤い太陽も使い分けて書いていた。なかなか可愛げのない子供だったようである…。

 

閑話休題。内容的に心に残る部分も深いし、ミステリ的な構造も面白い、非常によくできた作品だとは思うのだが、あえてお薦めにはせずに若干低めの点数にした。なんでかって言うと、三浦しをん作品ってこう言う真面目な雰囲気のものと、ライトで面白い物があって、後者のほうが他の作家より突き抜けている気がするから。特に今のご時世、ちょっと明るい系の三浦しをん作品を読んだほうが、こころの健康に良いと思うのだ。