パンズ・ラビリンス 監督:ギレルモ・デル・トロ/ 原作:/ 86点
■とても重いがよくできている
パンズ・ラビリンスはライラなどと同時期に発表された芸術性の高いファンタジー作品。メキシコ・スペイン・アメリカ合作のため、英題はPan's Labyrinthだけど、原題はEl laberinto del faunoである。主人公はパンではなくオフェリア。Panってのはギリシア神話の牧羊神で、原題のfaunoはそれに当るローマ神話の神、ファウヌスのことだそうな。ファウヌスは家畜や田畑や野や森を守る神で、wikipediaによれば、名は「いるもの」を意味するらしい。日本の八百万の神に似た発想に感じる。
結論を先に言うと、ナルニア、ロードオブリング、ハリーのようなファンタジーを想像して見ると最悪(そもそもPG-12指定だし)。しかし、戦争映画、社会派の映画、芸術映画として評価すれば素晴らしい作品だと思う。脚本をそのまま小説化しても読むに耐えうる内容。演技、映像、脚本どこにも穴は見当たらない。ただし、元気のあるときに見るべき映画。デートには向かない。そして見終わった際には絶対にスッキリしないはず。それが狙いであり、ある意味救いなのだと思う。
自分は映画や小説の背表紙の説明などすら見るのが嫌いなので、パッケージ写真に惹かれての借りてきたのだが、全然見当違いの内容だった。パッケージの美しい写真から夢のあるファンタジーを想像していたのだが、実際にはほぼ戦争映画。ヒトラー的ビジュアル造形の将軍の下に嫁いだバツイチの母とその娘オフェリアの物語である。
将軍は内戦を治め、配給を管理する立場の、かなりタカ派な古い軍人。オフェリアの母は何を思って奴に頼ったのだろうか。恐らく経済的な問題だろうが。ともあれ、そういう設定である都合上、ゲリラ側とのシビアな戦闘シーンが頻出する。戦闘後に倒れている人の頭に順に銃弾を打ち込んで止めを刺すなど、かなり過激な描写が多く、この時点でちょっと倒れそう。実写の戦争映画はエネルギーが要るので苦手なのだ。
そんな世界の中で、童話がとても大好きな少女オフェリアは、ある石像を直してあげた事から、未来を予言する本を手に入れる。実はオフェリアは地底の王国から地上に逃げて死んだ皇女の生まれ変わりだったというのだ。そして彼女は地底の王国に戻るために、3つの試練を受ける、というのがストーリーのあらまし。
ところが、である。パッケージのファンタジー全とした写真に、途中からはずっとファンタジーの世界で物語が進むと想像していたのだが、ファンタジー側での物語は、毎回5分程度しか続かない。すぐに現実世界に戻って、また血みどろの映像を見せられる羽目になる。これはかなり厳しい。
以下、完全なネタバレ
ネタバレ1
物語はその後も内戦9割、ファンタジー1割のまま話は進む。ハリー・ポッターなど通常のファンタジー作品であれば、救いとなるはずのファンタジー・パートは、オフェリアにとって救いにならない。第1の試練で泥だらけになったオフェリアは、罰として夕食を抜かれてしまう。その結果、第2の試練でつい食べてはいけないものに手を出してしまい、オフェリアは試練に不合格となり、ファンタジーの世界からも見放されてしまうのだ。
現実世界の状況もさらに悪化。スパイの何人かは正体がばれて殺され、ゲリラ側、軍隊側双方に多数の死者が出る。母は弟を産む際に死んでしまう。そんな中、ラビリンスの管理人パンが「特別に」オフェリアに与えた、地底の世界に戻るための最後の試練は、弟、つまり将軍にとっての世継ぎを誘拐してくることだった。弟を連れてラビリンスの入り口に立ったオフェリアはパンに「弟の血が数滴必要だ」と説明される。
お察しの通り、オフェリアは拒絶する。そこで「よく拒絶した」と褒められ、美しい世界へ、というのが普通のファンタジー的展開なのだが、そうはならない。オフェリアの背後には将軍が迫る。彼の目にはパンの姿は映っていない。そして、将軍はオフェリアを銃で撃ち、弟を取り返す。その後、ゲリラ軍たちは弟を抱えた将軍を発見し、弟の身柄を確保すると、将軍を殺害。そして、血まみれで倒れているオフェリアを発見するのだ。
場面は一転し、オフェリアは美しい服装で、金色の宮殿に立っている。DVDのパッケージのあのシーンだ。パンはようやく「よく拒絶した」と褒め称え、妖精たちが飛び回り、優しい地底の王国の父と母がオフェリアに笑いかける。オフェリアは幸福につつまれ、微笑を浮かべる....のだが、場面はまた現実世界に戻り、血まみれのオフェリアは静かに目を閉じる。
この映画を見て「そうか、死ぬ前に地底の国に戻れたのね」と思う人は、残念な事にとても幸せな人である。最後のシーンが現実世界である時点でそれだけは絶対にないはず。それどころか恐らく、この作品は「ファンタジーではなかった」のだと思う。「物語の好きな少女があまりに過酷な現実世界を前に、自分に都合の良い世界を妄想していただけ」と読み取るのが自然。ファンタジー・パートは全部オフェリアの妄想だったのだ。2度目の試練に失敗したのに、ピンチになった途端に「最後のチャンスをやろう」なんて都合のいい展開が待っていた理由もそれで説明がつく。
したがって、「ファンタジーだと思って見ると後悔する」のは当たり前なのである。内戦時の苛酷な環境下における少女の心理を描いた、社会派の芸術映画なのだから。しかし、ファンタジーではありません、と書いてしまうとその衝撃が薄れてしまうため、あえてファンタジー作品的プロモーションを行なったのではないか、と勘ぐってしまうぐらい。だとすれば嵌められたとしか言いようがない。
ところが完全な妄想として捉えるにはやや疑問も残る。母親の不正出血を本が予知した事、マンドラゴラの呪い(まじない)が効果を示した事、そして、魔法のチョークで出入りできないはずの部屋に侵入し、弟のところまでたどり着けた事などである。これが冒頭に書いた「スッキリしない」点。無論、最初の二つは偶然とみなす事ができるし、最後の1つは脱出にはチョークを使っていなかったことから、チョークは彼女の「行動力」のイメージであり、実際には普通に歩いていただけとも考えられる。
しかし、全体的に「ただの妄想には思えない」というシーンを散りばめる事で、ただの妄想ではなく、死後にオフェリアの魂が地底の王国にたどり着いているのではないかという想像、あるいはたどり着いていてほしいという願いのようなものを観客の心に喚起していると思う。つまり「地底の王国」は少女にとっての「逃避の世界」だけではなく、観客にとっての「救いの世界」でもあるわけだ。
とまぁ、長々と書いたが、見るともの凄く疲れるけど名作だという事は確か。芸術映画好きにはお勧め。ど派手に大感動系のハリウッド映画しか見ない人はやめたほうが良いと思う。
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