2001: A Space Odyssey
監督:Arthur Charles Clarke/ 原作:/ 81点
■結局は知恵の実の話なのか?
註)これは英語版の「2001: A Space Odyssey」を原文で読んだ感想です。邦訳版の「2001年宇宙の旅」を読んだわけではないので、邦訳時の解釈の違いなどには対応できていません。また、根本的に自分の和訳が間違っている可能性があります。ご容赦ください。
2001年宇宙の旅といえば、SFの名作中の名作とされ、リアルタイムフリークスでなかった我々としては今更見るのもなんだかなぁ...と思っていたのだが、取り合えずTOEIC対策で原作を読んでみる事とした。ご存知の通り、本作はなかなか難解な内容で、英語で読むにはなかなか根性が必要だった。内容を知らない人のためにちょっぴり解説すると、「猿はモノリスを見つけて人間となった。人間は月面でモノリスを見つけた。外部に知的生命体の存在を予感した人類は、AIであるHALと共に宇宙船で土星を目指す」って所。
読了した感想は「うーん、そういう終わりですか」って所。ちょっと結末に向けての展開が消化不良。基本1人称の視点のはずなのに、遡って行くシーンのあのへんの状態は1人称では語れないはずだし...などと考えているうちに、誰視点で話が進行しているのかあやふやになっているうちに結末にたどり着いてしまった。あそこはいわゆる神の視点か?
あとでネットで検索してみたら様々な意見あり。やや冗長で回りくどいが、独創的でまずまずの説得力があったのは、ここの意見。個々の場面の解釈についてはなかなか。それでも全体としての解釈に悩む。ボーマンの陰謀説はちょっと行き過ぎかと。ミステリとして捉えるなら、1人称で語られる地の文に嘘がある事になるので成立しないし。
以下ネタバレ
ネタバレ1
当然疑問となるのは、あの旅が人類にとって結局なんだったのかということ。一般的な説明では神の試練という事になっている。進歩した人類を神が呼び寄せ、進化させてシンパの末席に組み込んだというものだ。しかし上記リンクのなかでも仮定されているように(その後すぐに否定されているが)、神罰という考え方もある。手塚治虫の火の鳥で明らかなように、人類にとって永遠は最大の罰とも考え得る。上記リンクでも、試練を与えたが殺人を犯したボーマンに神罰を与えた可能性を考察している。しかしそのうえで「最初の進化が骨による武器の作成」であった事実を指摘し、神は最初から罰する前提だったのではないか、と結んでいる。
しかしこれだけでは答えにならない。罰する前提で進化させて、時間をかけて罰して意味があるのか。神の選択肢としてはチープだ。1つの解釈は「ループ」だろう。人類の代表ボーマンを試験しスターチャイルドに進化させたのは、やはり先代のスターチャイルドなのではないか。
無邪気な猿に過ぎなかった人類は進化し、神に褒めてもらおうと喜んで旅をしたら、生物としての全てを奪われ、本人の望みとは関係なく超越した存在にされてしまった。途中のボーマンのモノローグに「死は怖くないが、他の人類と別の時間軸などに孤独に放り出されたのではないかと考えると怖ろしかった」と言うものがあったとおり、彼がもっとも恐れる状況に陥れられた事は間違いない。そんな彼はきっと手に入れた能力で次の生命体を見つけ、進化させてみて「遊ぶ」のではないか、という事だ。そうして次々と知的生命体は生まれ、「昇格」させられる。ただ、この解釈では物語の構造や世界観はわかるが、映画のメッセージ性は推し量れない。
もう1つはとても当たり前な解釈だが知性の性悪説だろう。モノリスによって進化させた結果、攻撃性を持ってしまった事は、可能性の1つだったという解釈だ。ただし、何度試行してもどうしてもその「可能性」が選択されてしまう、極めて頻度の高い選択肢である。神は穏やかな知性を育もうと何度も生命を進化させる。しかし、知性を得た生き物は、どうしても攻撃性を持ってしまう。そもそも生命というものが他を摂取して成り立つ「奪い取る存在」であるが故に、攻撃性は生得的な性質であり、これは必然的であるともいえる。また、生命体ではなく、純粋な知性として進化したはずのHALですら、自己保存の意思から攻撃性を獲得してしまった事は、知的生命体と攻撃性が不可分である事の証明だろう。神はずっとゲームをプレイし、ずっと負け続けているわけだ。
したがって本作は、死を許容しなければ生を享受できないのと同様、攻撃性を容認しなくては知的生命体として生きられない、というシニカルな事実を突きつけているのではないかと思う。HALが攻撃性を獲得したのは自らが「殺される」と意識した、すなわち生死の認識によるものであり、生死の概念と攻撃性は対になるものである。したがってボーマンが永遠の命を与えられた=死を喪失したのは、イコール攻撃性の排除といえる。そして我々は、一般的な生命体として生きる以上、攻撃性を飼いならし、同居していくしかない。第1のモノリスはキリスト教における知恵の実のようなものである。知恵を身につける事が原罪であった事から分かるとおり、知的生命体として生きるという事は、罪人としての生を全うする事に他ならないのだ。
と、コメントを書いているうちに、「スカイクロラ」のベネチア映画祭での上映にあたり「人間が人間である限り、戦争はなくならないと思うし、あり方が変わるだけ。人間が1度でも“平和”を実現したことがあるか? 僕は、そこから世界を考える」と発言した押井監督の顔が浮かんだ。受容した上で何をすべきか、なのだな。
うーん、難解。原作で難解だったぐらいだから、映画だと数十倍難解だろう。実際、最初の公開時には難解すぎて理解・評価されなかったらしいし。これに比べたら昨今の難解とされる映画はまだわかりやすいほうだと思う。
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