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いまこの瞬間愛していると言うこと

作者:辻 仁成/ 原作:/ 73点
いまこの瞬間愛しているということ

いまこの瞬間愛しているということ

価格:1,680円(税込、送料別)

自分にとって辻 仁成と言えば作家「ツジ ヒトナリ」ではなく、ECHOESのボーカリスト「ツジ ジンセイ」であった。彼らの曲は反社会的行動は起こさずとも非社会的である、というような立場の「若者の心」を叩きつけるような、いわゆる「マイナー路線」のものであった。当時恋愛下手であった評者にとっては、惚れたハレたの安っぽい恋愛の歌より肌に合う音楽性であった。

高校三年生の全国統一模試の際に、辻氏の作品「ピアニッシモ」が問題として採用された。評者にECHOESの存在を教えてくれた友人の、試験後の興奮した顔は今でもハッキリと思い出せる。彼の作風はいわゆる「文学作品」で芸術祭に出てくる映画と同じような、そういう立場にあったと思う。小説を書いていることは知っていたが、彼の処女作が「すばる文学賞」を獲得していることを知ったのはこの後だ。そのうちECHOESは解散、辻氏はソロ活動を続けるも、自分の中で辻氏は徐々に過去の人となった。

 

就職後、本を濫読する中でふと辻氏の作品を手に取った。小説家としての興味よりも高校時代を懐古しての行動だった。それは当時愛読していた筒井康隆氏作品のすぐ隣に並んでいた、それだけの偶然である。作品タイトルには辻氏の曲のタイトルがそのまま流用されているものも多い。中山美穂氏とのエピソードを聞いていても、彼の台詞は自身の歌詞の引用であることが多い。軽い軽蔑感をもったままその本を購入したのであるが、見事に裏切られた。もの凄い力量の作品だったのだ。文学的なだけでパワーの弱かった、過去の辻作品のイメージは一掃されていた。それはとても力強い青春小説だったのである。

その後、次々と辻氏の作品を購入。たまに受け入れ難い作風のものもあったが、多くが大変素晴らしい物だった。恋愛小説では江国香織氏に切迫する魅力を生み出し、文学作品「白仏」では圧倒的なまでの文学性を披露し(この作品では日本人で初めてフランスのフェミナ賞を受賞している)、「五女夏音」では筒井康隆作品のようなコミカルな作風すら披露している。

 

前置きが長くなったが、本作品はそんな辻氏の恋愛小説のひとつだ。舞台はフランス。フランス料理の最高峰である三ツ星レストランを目指すフランス人男性「ジェローム」と、やはり星の取れるシェフを目指し修行中の日本人女性「ハナ」との間の恋愛を書いた作品である。辻氏は「冷静と情熱の間」では絵画の修復、という職業の崇高さを見事に描いていたが、本作品でも三ツ星を目指すシェフとそれを評価する者という二つの職業を見事に描ききっている。

ジェロームは妻子もちであり、ハナは若く笑顔の魅力的な少女で、と聞くと目を覆いたくなるようなドロドロとした不倫小説を予期してしまうが、この作品はそのような醜さとは無縁だ。作中の人物はみな、真剣に自らを貫いている。これは辻作品に共通の特徴だが、彼らは逆境時にあって安易な道を選ばない。それが余計に自らを苦しめることになろうと、前に進み続ける。この前向きさのせいだろうか、悲劇的な本作品においても読後にマイナスのイメージは一切もたらされない。よくできた料理がそうであるように、内容の濃さに反して後味はすっきりしているのだ。

 

数々の作品のドラマ化や映画化で有名になった辻氏であるが、映画等に辻氏の作品の魅力はまったく反映されていないと言っていいだろう。映画を見てがっかりした人には、ぜひ原作を読んでほしい。

 

 

なお、彼が作る曲の多くが好きだし、彼の書く小説の7割が好きだが、個人的に人間「辻仁成」を好きになれない。それでも作品を読んで感動するだけの力量のある作家だと思う。