喜嶋先生の静かな世界 The Silent World of Dr. Kishima作者:森 博嗣/ 原作:/ 100点
人間は大きく二つに分けられる。理系の人間と文系の人間だ。...などという類のフレーズは余りにも使い古されて、もはやジョークにしか使われないぐらいだが、大学における理系と文系の差はびっくりするほど大きい。 文系の卒論は4年の後期に先生に1度か2度見てもらうだけの、いわば「まとめ」や「見解」であることが多い。無論、もっと高度な事をやっている研究室も沢山あるが、あくまで傾向としての分析である。したがって、担当教官との結びつきは薄いし、人生における「衝撃度」も低めだ。 一方、理系の卒論は本来、「発見」で無ければ認められないものである。そのため、少なくとも3年の終わりには研究室を決定し、以降卒業までの間、殆ど研究室で生活するようになるのが普通だ。これもまた文系に比べれば、という傾向のお話であり、例外も多い。 理系の大学を出た面々にとっては、研究室は第二の故郷のようなものであり、担当教官といえば第二の父・母のようなものである。ものの選び方、人生の歩き方、社会人としての常識、自分を律する事の大変さなど、非常に多くのことを底で学ぶことになる。イメージがわかない人は、「動物のお医者さん」を読むと良い。まともな理系の研究室は大抵あのようなものである。
前置きが長くなったが、本作品はそういった理系の研究室を舞台としたものであり、理系の大学卒の人間としては、冒頭の研究室選びのシーンだけで、懐かしさがこみ上げ、胸がいっぱいになる。上述の「動物のお医者さん」の空気になじめる人なら親しみやすいだろう。一方、あの空気が理解しがたい人にはちょっと退屈かもしれない。
物語は主人公である橋場君の視点で綴られる。作品のタイトルに反し、喜嶋先生はめったに登場しない。しかし、登場人物である橋場君と同様、読者はたまにしか登場しない喜嶋先生に大きく影響を受けることになるだろう。 本作は「学ぶこと」についての啓蒙書にもなりうるような内容でありながら、非常に良くできた恋愛小説でもある。物語の終盤の描写はびっくりするほどさっぱりとしていて、短編で読んだ際のあの歯切れの良い切なさは少しも損なわれてはいない(実はほぼ同じ内容の短編が事前に発表されている)。優れた学会発表は前提条件さえしっかり定義すれば、結論や考察は一言で済む。なんだかそれに似ている。
本作品はおそらく、作者である森博嗣の私小説に近いものである。こうして尊敬できる先生から、尊敬できる次の世代が育っていくのだなと感じた。あと10年したら、森博嗣の生徒が華々しい活躍を見せてくれるのだろうか。いや、文壇とは別の舞台ですでに活躍しているのだろう。
個人的に大好きな作品なので100点。万人受けするかどうかは知らないけど、本当に大好きな作品だ。短編の時点で好きだったが、まさか講談社記念本で長編化されようとは。非常にうれしい。 Copyright barista 2010 - All rights reserved. |