書いた日:12/09
読んだ日:12/01 - 03
ネジ式ザゼツキー
島田荘司

 困ったことが起こった。面白いのである。子供の頃読みすぎてミステリに食傷し、長期にわたりミステリ離れをし、つい最近、いわゆる「新本格」の鬼才、森博嗣の作品に傾倒した評者としては「本格」にこれ程感銘を受ける予定はなかったのだが。
 この作品に登場する探偵、と言っても本業は精神科医だが、御手洗は典型的な安楽椅子型の探偵である。舞台はほとんどある患者との診察のシーンだけで構成される。したがって読者が探偵の人間性や家族構成、生い立ちなどを知る機会はまったく与えられない。病院がどこにあって、部屋がどんな構造なのかもまったくわからない。感情移入を行なうような余地はまったく残されていないのである。登場人物の口調の個性もさほど強調されていない。しばしば誰の台詞なのか混同するほどである。作者は日本人であるが翻訳小説を読んでいるような気分にさえなる。しかしそれは本作品の欠点を意味するものではない。余分な描写を削り取り、効率よく開示されていく手掛かりに対し、御手洗は手際よく新事実を明らかし、そして劇中の2つの世界は見事に融合する。「大風が吹くと桶屋が儲かる」構造になりがちな安楽椅子型のストーリィにおいて、展開中の論理を忘却するような情景描写など蛇足なのであろう。
 SFの大家、星新一が「SF」だけを描き、人物の名前すら描かなかったように、筆者は「論理」だけを切り取って描いている。「あぁ、これが本格と言うものか」と初めてフランスでフランス料理を食べたような感銘を受けた。


書いた日:12/09
読んだ日:12/08 - 09
透明人間
浦賀和宏

 「透明」を成立させる条件は多く存在する。透過率が100%で屈折率が0%である。背景と同じ色である。背景も対象も複雑な模様である。観察している場所が違う。観察している時間が違う。観察者の視力に問題がある。観察者の記憶に問題がある。観察者の判断に問題がある。いずれの場合においても、観察者が存在を認識できない状態であれば「透明」と呼ぶ事に問題はないだろう。
 本作品中では、最後に上記のどれにも当てはまらない「透明」が登場する。その透明度は上記のどれよりも高く、決して目に映ることはないだろう。メインの舞台となる研究室でのトリックはさほど目新しいものではない(と思う)。細かい布石を読み飛ばしてしまう速読派の評者でも、話の流れである程度の想像はできてしまう。しかし意外な形で探偵役を担うこととなる人物の手によって、明らかにされる過去の事件との連携は美しい。
 しかし本作品の本来の魅力はそこだけではない。心に傷を負った主人公が最後にもうひとつ「透明」なものを見つけるまでの心の成長の描写こそがこの作品を面白くしているポイントであろう。中学生ぐらいの読者にもぜひ一読いただきたい作品だと思う。


書いた日:12/10
読んだ日:12/09 - 10
今この瞬間愛していると言うこと
辻 仁成

 評者にとって辻 仁成と言えば作家「ツジ ヒトナリ」ではなく、ECHOESのボーカリスト「ツジ ジンセイ」であった。彼らの曲は反社会的行動は起こさずとも非社会的である、というような立場の「若者の心」を叩きつけるような、いわゆる「マイナー路線」のものであった。当時恋愛下手であった(今も変わってはいないが)評者にとっては、惚れたハレたの安っぽい恋愛の歌より肌に合う音楽性であった。
 高校三年生の全国統一模試の際に、辻氏の作品「ピアニッシモ」が問題として採用された。評者にECHOESの存在を教えてくれた友人の、試験後の興奮した顔は今でもハッキリと思い出せる。彼の作風はいわゆる「文学作品」で芸術祭に出てくる映画と同じような、そういう立場にあったと思う。小説を書いていることは知っていたが、彼の処女作が「すばる文学賞」を獲得していることを知ったのはこの後だ。そのうちECHOESは解散、辻氏はソロ活動を続けるも、評者の中で辻氏は徐々に過去の人となった。
 就職後、本を濫読する中でふと辻氏の作品を手に取った。小説家としての興味よりも高校時代を懐古しての行動だった。それは当時愛読していた筒井康隆氏作品のすぐ隣に並んでいた、それだけの偶然である。作品タイトルには辻氏の曲のタイトルがそのまま流用されているものも多い。中山美穂氏とのエピソードを聞いていても、彼の台詞は自身の歌詞の引用であることが多い。軽い軽蔑感をもったままその本を購入したのであるが、見事に裏切られた。もの凄い力量の作品だったのだ。文学的なだけでパワーの弱かった辻氏の作品のイメージは一掃されていた。それはとても力強い青春小説だったのである。その後、次々と辻氏の作品を購入。たまには評者に受け入れられない作風のものもあったが、殆どの作品が大変素晴らしい物であった。恋愛小説では江国香織氏に切迫する魅力を生み出し、文学作品「白仏」では圧倒的なまでの文学性を披露し(この作品では日本人で初めてフランスのフェミナ賞を受賞している)、「五女夏音」では筒井康隆氏の作品のようなコミカルな作風すら披露している。
 前置きが長くなったが、本作品はそんな辻氏の最新作である。舞台はフランス。フランス料理の最高峰である三ツ星レストランを目指すフランス人男性「ジェローム」と、やはり星の取れるシェフを目指し修行中の日本人女性「ハナ」との間の恋愛を書いた作品である。辻氏は「冷静と情熱の間」では絵画の修復、という職業の崇高さを見事に描いていたが、本作品でも三ツ星を目指すシェフとそれを評価する者という二つの職業を見事に描ききっている。ジェロームは妻子もちであり、ハナは若く笑顔の魅力的な少女で、と聞くと目を覆いたくなるようなドロドロとした不倫小説を予期してしまうが、この作品はそのような醜さとは無縁だ。作中の人物はみな、真剣に自らを貫いている。これは辻作品に共通の特徴だが、彼らは逆境時にあって安易な道を選ばない。それが余計に自らを苦しめることになろうと、前に進み続ける。この前向きさのせいだろうか、悲劇的な本作品においても読後にマイナスのイメージは一切もたらされない。よくできた料理がそうであるように、内容の濃さに反して後味はすっきりしているのだ。
 近年ドラマ化や映画化で有名になった辻氏であるが、映画等に辻氏の作品の魅力はまったく反映されていないと言っていいだろう。映画を見てがっかりした人には、頭を下げてお願いするから原作を読んでほしい。そう願ってやまない。

書いた日:2004/02/20
読んだ日:2004/01/??
四季 秋
森 博嗣

 一言で言うなら超越している。この作品がではない。森博嗣が我々を、である。こういうシステムで作品を書き綴ることに対しては賛否両論あるだろうが、評者は楽しんでいる。森博嗣の作品が「発行順に読むべき」というのは以前から知られる話ではあるが、これはその最たるものだ。詳細を書けば興を削ぐ事となるのでここには書けないが、とにかく、作品は初版発効日順に読むようにすれば間違いないとだけ言っておきたい。以前にも評者は森博嗣を「布石を打つのが巧い作家」と評したが、その規模は一般読者の想像力を凌駕している。恐ろしいことに「過去の作品を丸ごと一本」等、そういうレベルで布石にしたりするのだ。評者にはこれまでその全貌が見えず、ここに来てただただ脱帽した。
 「秋」はまさに実りの作品である。森作品の愛読者であれば狂喜乱舞するような福袋的作品だ。既にこの秋で閉めてしまってもいいとも思えるこのシリーズを、果たして「冬」でどう閉める気なのか。メタになるのかSFになるのか再びシリアライズを続けるのか、膨らんだ期待を裏切らない作品であってほしいものだ。なお、このような作品構成に対し「初読の読者を軽視している」などの意見もあるかもしれないが、あえて評者は切り捨てたい。森氏がハッキリとこう言っているからだ。「自分はお金のために小説を書いている。自分の書きたいものを曲げることもある。書きたくないものを書いているつもりも無いけど、売れるものを意識して書いている」。そして氏の作品は今日も売れ続けている。われわれは諦めて氏の鉄道模型の材料費を献上し続けるしかないのだ。



書いた日:2004/05/24
読んだ日:2004/05/23
ぼくんち
西原理恵子

 既刊のカラー漫画3冊を白黒1冊にまとめた作品。恐らく映画化記念で出版されたものと思われる。漫画の中では評者がかなり好きな作品のひとつ。
 本作品の基本的構造はギャグ漫画。舞台は日本のどこか。登場人物はいわゆる「スラム街」の住人。ヤクザ、チンピラ、テキ屋、売人、泥棒、ホームレス、娼婦、などなど早々たるメンバが、悲惨で、凶悪で、滑稽な生活を2ページの見開きの中で繰り広げる。倫理観や恋愛観、貞操観念がかなり古風な評者としては、様々な描写に拒絶反応も噴出するのではあるが、それでも読んでいて涙が出そうになる。人間の一番弱いところをついた、ある意味卑怯な作品といえるだろう。
 登場人物はみな、最低の環境で、最低の生活をしているのだが、作者は人間の悲しいところ、醜いところ、恐ろしいところ、それら全てをひっくるめて愛すべきところに昇華してしまう。伊丹作品の重さと滑稽さを映画一本分2ページに凝縮して、1冊に纏め上げたような、とでも言えば想像しやすいだろうか。現状が幸せな人には、凡庸な作品に感じるかもしれないが、これもひとつの哲学の形だろうと評者は分類する。読んでみてただの「下ネタギャグ漫画」にしか見えかった人は、無理してわかろうとする必要はない。自分がとても幸せなのだと幸運に感謝すればよい。

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